SSブログ

やまゆり園事件と死刑の存廃 [社会福祉]

相模原障害者施設殺傷事件(やまゆり園事件)とは、2016年7月26日に、神奈川県の社会福祉法人が運営する知的障害者施設「津久井やまゆり園」に元職員の男が侵入し、45人を殺傷(うち施設入所者19人が死亡)したという大量殺人事件だ。

その事件の内容については当時大きく報道され、現在でもネット上に多くの情報が見つかるので、事件について詳述するのは避ける。それらの多くは、犯人の動機は何だったのか、知的障害者には生きる価値がないのか、といった観点から事件を論じている。が、今回注目するのはそこではない。

犯人には第一審で死刑判決が下され、弁護人が控訴したが、本人が取り下げたことにより死刑が確定した。その後本人が再審を請求している。

裁判で争点になったのは責任能力の有無だった。検察が行った精神鑑定では、パーソナリティ障害が認められるが責任能力はありとし、弁護側の精神科医は犯行当時は大麻精神病の状態にあり、現在もその症状が持続している可能性があるとした。結果としては、責任能力を認めて死刑判決が下され、控訴取り下げによって第二審で争われることなく決着した。

大麻精神病(Cannabis-induced psychotic disorder、大麻誘発性精神病性障害)とは、大麻の使用によって精神障害が引き起こされたものだ。WHOの定めるICD(国際疾病分類)にも、APA(アメリカ精神医学会)の定めるDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)にも記載されている。

ただし、大麻が特に危険な薬物というわけではない。大麻精神病は、ICDやDSMでは、物質使用の障害という大項目のなかにある。この大項目の中には、アルコール・覚醒剤・ヘロインなどの「薬物」に関して起こる精神の病気が集められている。その中には依存症や急性アルコール中毒もある。だから、大麻精神病だけでなく、アルコール精神病や睡眠薬精神病もある。だから、大麻だけが精神障害を誘発する危険な物質というわけではなく、飲酒によって精神障害が引き起こされる場合もあるわけだ。

さらに、この物質誘発性の精神障害は、それほど頻度が高いものではなく、DSMでもICDでも依存症や離脱の説明に費やされているページ数に比べると、割かれているページ数はごく少ない。ついでに、DSMの物質関連障害にはカフェインやタバコも含まれているが、カフェイン誘発性の精神障害や、タバコ誘発性の精神障害は記載されていない。これはつまり、コーヒーを飲んだりタバコを吸ったりする程度で、精神病が引き起こされると言えるだけの根拠がないということだ。

だから、大麻だけが精神病を誘発する危険な物質というわけではないが、だが確かに大麻精神病(大麻誘発性精神病性障害)は存在するのである。

犯人は最初から大量殺人を考えていたわけではなさそうだ。むしろ、障害者施設で働くことを前向きにとらえ、記録を熱心につけ、上司に対して改善の提案も行っている。しかし、やがて施設をやめ、犯行に及ぶ。そして、その後は「意思疎通の取れない人間は安楽死させるべきだ」という主張を繰り返すのである。その変化は、大麻の連用が引き起こしたものなのかもしれない。

もし大麻精神病を認め、心神喪失による無罪判決、あるいは心神耗弱による減刑が行われたとしたらどうだったであろうか。無抵抗の19人もの人間を殺した人間が無罪となったら、遺族はもちろん、一般大衆も納得しないだろう。また、大麻はそのような人格の変容を起こしうる大変危険な薬物だという印象が社会全体に広まることになっただろう。

それを踏まえれば、例え犯人が大麻精神病だったとしても、それを認め、それを理由に無罪にすることは社会的影響が大きすぎる、ということになる。裁判所の判断にはそのような事情が影響した可能性がある。このまま彼は死刑になる可能性が高い。

しかし私は思うのである。そのような社会の側の事情によって、無罪でありうる人が死刑に処される。これは正しいことなのだろうか。功利主義的に考えれば、一人の人間の犠牲はやむなしとなるのだろうが、どうも釈然としないものがある。

私は長いこと死刑廃止を積極的に支持してこなかった(消極的な支持に留まっていた)。それはやはり人々の処罰感情の強さを考えてのことである。しかし、やまゆり園事件の死刑確定によって、私は考えを変え、死刑廃止を積極的に支持するようになった。

1964年のライシャワー事件の後、精神衛生法が改正され、多くの精神障害者が劣悪な環境の精神病院に閉じ込められることになった。社会の安全のためには精神障害者が犠牲になるのはやむを得ないと考えられたわけだ。やまゆり園事件の犯人の主張は到底支持できない。しかし、そんな彼には死刑が相応しいと考えるのは、彼の考えを肯定することになる。彼の考えを否定するためにも、死刑は廃止されるべきだと考えるのである。
nice!(0)  コメント(1) 
共通テーマ:資格・学び

nice! 0

コメント 1

近藤 圭

選別を肯定する人たちと選別にっよって犠牲になる人、生存戦略として障害者と健常者が選ぶもの。

やまゆり事件の加害者の論理と同じものを社会では当たり前に振り回す人がいる。

我が身を振り返ると自分がどの位置にいるのかわからなくなる。

わかっているのは、自分と自分の周りの人たちが生きていかねばならないこと、そのための生存戦略は奇異に見えるかもしれないがありふれた日常的なものだろう。それぐらいはわかる。

犯人は死刑になることによって自己の主義主張の正当性を証明するだろう。彼を英雄にしてはならない。それだけはわかる。
by 近藤 圭 (2023-09-23 21:57) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。