SSブログ

なぜ支援のために診断(病名)が必要なのか [社会福祉]

社会福祉の中でも、とくに精神保健福祉の領域では、診断を行って病名をつけることに抵抗を感じる人が少なくないようだ。

もちろん現在の日本では病気の診断は医師だけができることで、ソーシャルワーカーが診断をするわけではない。しかし、知識と経験から「おおよそのあたりをつける」ことは必要であるし、しなければならないことだ。そうでなければ、受診を勧めることができず、病気をみすみす悪化させてしまうことになりかねない。特に、統合失調症では初期段階で集中的に薬物治療を行えるかどうかが予後を大きく左右する。

そのように必要とされていることであるにも関わらず、診断が行われることに抵抗を感じるのはなぜだろうか。

一つには、診断主義的アプローチ(医療モデル)に対する批判がある。病気の治療をサポートすることも必要だろうが、ソーシャルワークは原因(この場合は病気)を突き止めて解決するよりも、それによって生じてきた生活上の困難の解決をサポートしていくべきだとする考え方である。そうであれば、診断は必ずしも必要ない。

もっと大きな理由は、精神科領域の病気が持つスティグマ(差別的属性)だろう。メンタルな病気には必ず社会の偏見がつきまとっていると言っても過言ではない。精神分裂病が統合失調症と改められたのも、少しでも偏見を減らすためだった。「医者からは鬱だと言われています」と言う人がは実は統合失調であることも珍しくない。医師が病名を告知しないのは、スティグマが原因で告知が治療的にプラスに働かないと判断しているからである。鬱病に対するスティグマはずいぶん減ったが、それでも鬱病の診断書を会社に提出するのは、身体科の病気の診断書を出すよりもためらわれる。自閉症スペクトラムよりもADHDという診断を好む人が多いのも、自閉症という病名につきまとうイメージの悪さゆえだろう。

診断を行うことはラベルを貼ることであるが、同時にスティグマも貼り付けてしまうことは避けられない。であるならば、医学的な治療を行う場合はともかくとして、他の場面では診断情報なんか要らないではないか、という考えるのも当然だろう。

診断が必要とされる理由は、それによって医学的な治療や病気によって生じる困難の解決サポートが必要になる、というだけの理由ではない。そのような治療や支援が公的な資金によって行われているからだ。社会保障の制度は、強制的に徴収される保険料や税金を原資にしている。である以上、その資金は公平・公正に使われなければならない。誰かのために恣意的に使われればそれは腐敗であり、腐敗がまかり通ればその社会制度は維持できなくなってしまう。

だから、社会保障は公平性を保つことが大切なのだ。「この人は可哀想な事情があるから支援の対象にし、この人は自業自得だから支援の対象にしない」といった判断が支援者の個人レベルで行われたのでは、公平性が保てない。極力公平性が保たれるように制度を設計し、組織的に運用しなければならない。その一つが診断の適用なのだ。

この人は病気が原因で困難に陥っているので支援の対象としている、そして病気であるかどうかは科学的な根拠にもとづいて決められた診断基準によって訓練された医師が行っている、ということが、公平性の説明になっているわけである。

したがって、公的な資金を原資としない支援であれば、診断はかならずしも必要とされない。例えば、独立開業している心理カウンセラーにかかるのに健康保険制度は使えず、全額自己負担になる。だからこそ、カウンセラーは診断はしない。医師ではないから診断できないという事情もあるが、する必要がないからでもある。また、困窮者向けに炊き出しを行う際にも、診断などを要求しない。これも、炊き出しはたいてい善意の寄付を原資にしているからである。

このように、診断を必要とするのは、支援が公的な資金を原資にしているため、公平性を担保しなければその制度が維持できなくなるからである。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:資格・学び

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。